書評:『脳がわかれば心がわかるか』(山本貴光・吉川浩満、太田出版)

旧版『心脳問題』より12年経っての増補改訂版。改題でより内容に即したわかりやすいタイトルとなっている。
本書のテーマはタイトルのとおり。「脳がわかれば心がわかるか」、つまり物質としての脳を理解することによって、心を理解できるか? という古来よりの問いである。
といっても本書の中でその問いに回答が与えられるわけではない。本書の目的は、この問いがどのような歴史を持ち、これまで得られた回答がどのようなものだったのか、そしてこの問いがなぜなお重要とされるのかという、いわば心脳問題についての見取り図を私たちに提供することだ。

心脳問題=物質としての脳と非物質的な心とのあいだにどのような関係があるのかについては、これまで大きく分けて4種類の回答がなされてきた。

  1. 唯物論 ──人間とは物である。心など存在しない。
  2. 唯心論 ──人間とは心である。物など存在しない。
  3. 二元論 ──人間とは物と心の2つからなるものである。
  4. 同一説 ──人間とは物であり心である。両者は同じ一つのものである。

現代社会では脳科学の進展により、脳内活動によって心的現象を説明しようとする立場が興隆している。彼らは、私たちが抱く感覚や感情、意思といったものはすべて脳内現象として説明できる、とする。これは唯物論のひとつといえる。
また、我々の実感から言えば、物質としての脳・身体と心は別物ではないかという気がしてくる。私の考えることが何もかも物理現象であるとすることは、私に感情があり、意思があるという実感とどうしても相容れない。これは二元論の立場である。

だが、これらの4つの立場は、いずれも論理的欠陥を備えている、と山本・吉川は述べる。

たとえば唯物論に立てば、物としての脳が心や知覚世界を作り出しているのだから、原理的に脳の完全な観察ができれば心や知覚世界が完全に把握できることになる。しかし、例えば視覚における脳の活動を観察する実験において、脳のニューロン活動からはそれが錯覚であることが区別できなかった。「錯覚である」ことも脳の産物であるはずなのに、錯覚であるか否かがニューロン活動の上では区別できないのは矛盾している。
また、脳の自己観察という思考実験を考えてみる。これは、ある種のセンサーやモニターを用いて自らの脳の状態を完全に観察してみる、というものだ。すると、知覚世界の一部である私の脳が知覚世界のすべてを作り上げている、という矛盾した状況が生まれてしまい、私の脳を観察する脳、を観察する脳、を観察する脳……という無限後退を起こしてしまう。

また我々が無意識に慣れ親しんでいる二元論は、では物と心はどのように関係しているのか、という大きな困難に突き当たる。物質(脳、身体)と非物質(心)のあいだにどのような関係を結ぼうとしても、その試みはカテゴリー・ミステイクとなってしまう。

このように、心脳問題の解答は確定されていない。

ここで、問題設定そのものが誤っているのだ、としたのが哲学者・大森荘蔵である。もともと科学は、さまざまな出来事のなかから言葉を用いて一般的に記述できるものだけを記述する、という特殊な一方法に過ぎない。心を排除することで成立した科学の言葉で、排除した当のものを語りうるはずがない。科学的記述は、原理や法則といったものを際立たせる視点として、日常の経験に重ねておけばよい(「重ね描き」)──これが大森の主張であった。
(大森門下である野矢茂樹の理論は、この批判的な延長の上にあるといえる。書評:『心という難問 空間・身体・意味』(野矢茂樹) | ditm.

問題は確かにこれで解消する。
だが、その議論は「原理的に考えて何が正当か」という問題(権利問題)にとどまっているため、真に有効な処方箋にはなりえていない、と著者は言う。

「実際に何が起こっているのか」、つまりなぜ心脳問題は繰り返し現れるのか? という問題がまだ残っているのだ(この「なぜ『この問題』は問題なのか?」という視点は吉川浩満の十八番である。書評:『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』(吉川浩満) | ditm.)。

なぜ心脳問題は繰り返し現れるのか?
それは、重ね描きのベースとなる日常の経験/日常生活が、科学による物質条件の改変にともなって変容していくからだ。科学による物質的条件の改変は、それまで存在しなかった選択肢を人間に提供し、選択を迫る。 それはいつも正解のない選択として存在し、だからこそ必然的に政治的・倫理的なものとして立ち現われるのである。

そして現代社会の問題として、これまで政治的・倫理的なものとしてつくられてきた、つくられるべきとされてきた人間社会の基準が、ますます非政治的で中立的とされる生物学的・脳科学的な情報にとって代わられているという事態がある。それ自体が政治的なものであるのだが、コントロール型生政治+脳工学+脳中心主義というトライアングルのなかでは、その政治性を思考することそのものが難しくなってゆく。
そのただなかに入ってしまえば「それでなんの問題もない」のかもしれないが、それでもなお、「それでいいのか」を考え続けることが必要だ、というのが筆者の主張である。

「コントロール型生政治+脳工学+脳中心主義というトライアングル」に関連するものとして、前二つについては

などが挙げられるだろう(作中で言及されているものもある)。脳中心主義の興隆については言うまでもない。それなりにニュースに触れている者であれば、「最新の脳科学の知見によれば……」という文言を見ない日のほうが珍しい。
その一角をなす脳中心主義に疑義を投げかけることが本書に通底する主題であり、その試みは成功していると言って良いだろう。

紙幅の都合もあり、唯物論への批判の解説がやや不十分に見える部分はある。たとえば錯覚に関するニューサムの猿のニューロン観察実験については、視覚を司るニューロンとは別に錯覚を司るニューロンがあるのではないか(そこを観察していなかっただけではないか)という反論は可能だし、脳の自己観察についても、「無限後退を招くような完全観察は原理的に不可能なのでは?」という疑念を孕みうる。
ただ、そのように唯物論を支持したい、批判に反論したいと感じた読者は、本書のあとに唯物論者たちの反論をたどればよい。
そのきっかけを与えるものとして、また単純に心脳問題そのものについての見取り図を提供するものとしても、よい一冊である。

『脳がわかれば心がわかるか』(山本貴光・吉川浩満、2016年5月)

増補改訂版へのまえがき
初版まえがき

第1章 脳情報のトリック──カテゴリー・ミステイクとパラドックス
脳とわたし──ジレンマ(p20)
「だから」の錯誤──カテゴリー・ミステイク(p26)
「じつは」の欺瞞──パラドックス(p32)

[間奏]頭がよくなる?(p52)

第2章 心脳問題の見取図──ジレンマと四つの立場
心脳問題という難問──やさしい問いとややこしい議論(p67)
心脳問題の特質──「ある種の知的な気分」(p70)
回答集──四つの立場(p77)

[間奏]脳研究小史

第3章 心脳問題の核心──アンチノミーと回帰する疑似問題
心脳問題の争点──カントの第三アンチノミー(p133)
アンチノミー=ジレンマの解毒剤──「重ね描き」(p141)
権利問題と事実問題──ジレンマふたたび(p154)
解決されず解消あるのみ──回帰する擬似問題(p156)

[間奏]デカルトの神話

第4章 心脳問題と社会──社会と科学、そして生
科学の原理──同一性と一般性(p174)
科学の力──科学/技術とジレンマ(p179)
脳科学──「脳のスペック」(p183)
脳中心主義──現代社会の根本教理(p186)
脳科学と社会──バイオテクノロジーとコントロール型社会(p194)
心脳問題の横滑り──「ある種の知的な気分」の政治性(p214)

終章 持続と生──生成する世界へ
科学の限界──持続と特異性(p227)
持続の相の下で──構成物としての心脳問題(p235)

補章 心脳問題のその後
心脳問題のその後 科学(p244)
心脳問題のその後 哲学(p251)
アンチノミーのさまざまな形(p253)
おわりに(p254)
作品ガイド
索引
初版あとがき
増補改訂版へのあとがき