差別主義思想はなぜ許されないのか。

重度障害者や認知症の世話を他人になすりつけてる人は、自分が差別主義者だという事を自認しているのだろうか – 珈琲をゴクゴク呑むように
ものすごくとっ散らかった文章だが、要約すると、

「経済的弱者が福祉労働を引き受けざるを得ない状況を黙認して、自らの福祉問題は安上がりに済ませておいて、一方で平等主義を語るのは偽善だろうが」

である。
筆者の書き口は高齢者や障害者に対する差別的なものを含むが、それも当事者かそれに近い立場からの怨嗟であるがゆえではないかと思わせる熱量がある。

理想として平等主義思想は推し進めて行かなければならない。このことは大前提である。
それは、差別を行う根拠としての「優劣」の線引きが主観的な、好悪に基づく、個人的信念の域を出ることがないからである。「すべて包摂する」以外の回答は、その正しさを論じようとすると必ず論理的破綻に追い込まれる。
この平等主義の方向性以外、整合性のある思想は過去に呈されたことがなく、あるのは「限られた資源の中で優先順位を付けざるを得ない」という妥協案の各種変奏だけだ。それ以外は全て歴史の波下に消えている。

その上で、「自らの福祉問題は安上がりに済ませておいて、一方で平等主義を語るのは偽善だ」との主張には一理がある。

福祉が負担であることは事実だ。誰かが困っていて、そこに経済的な支援、身体的な介助が必要となることを、議論をこねくり回して「負担ではない、マイナスではない」とするのはイデオロギーだろう。
福祉や介護の場に喜びがありうることと、それが負担であることは背反しないし、喜びが実際にあらわれたからといって、その負担が必ずしも無化されたり軽減されるわけではない。

だから問題は常に福祉負担の平等さ、適正さの議論のなかに現れる。私たちが目にする高齢者や障害者に対するディスも、ほとんどは負担感の過剰さ(事実であれ思い込みであれ)に端を発している。

今回の津久井殺人事件の犯人について高島章氏がすぐれた一連のツイートをしていて、なるほどと膝を打ちそうになるが、慎重に考えたい。

  • 殺せるものなら殺したほうが良い(実際に可能かどうか、社会的に許容されるかどうかは別として)
  • 殺しても良い(実際にやるかどうかは別として)

この二つは論理としては別のもので、後者はともかく、前者が他我問題への回答から導かれることは考えづらいのではないか(そもそも心の哲学における他我問題は特定の他者ではなく、私以外の全人類を対象とする問いなのだが、ひとまず置いておく)。そうではなく、過剰な負担感が根底にあることを前提に、まずは上に述べたような功利主義的な思考様式から導かれたとするのが妥当だろう。
「だって彼らは人間としての資格に劣るから」という思考は、その功利主義的思考を実行に移す後押しであったとするのが自然ではないだろうか。

重要なのは、その負担の原因を支援の必要な個人に帰属させるという過ちを犯さないことである。原因は誰にあるのかという問い自体が不毛だが、敢えて問うなら我々の種そのもの、あるいは更に大きな生命系統グループそのもののあり方にあるとしか答えようがないし、それが解消されない責任は、科学や社会の未熟さにある。生産能力のピークを過ぎた高齢者や、確率的にたまたま自らがそう生まれた・そうなった障害者個人にその責を負わせるのは、浅知恵による、ぬるい誤回答である。

ぬるい誤回答なのだが、「彼らは人間としての資格に劣る」「彼らには人たる知性がない」と断じてしまえば、問題の前提自体を書き換えてしまうことができる。誰が責を負うべきかではなく(なぜなら彼らは”誰”のうちに含まれないことになるので)、単なる損切り処理へと問題をすり替えてしまえる。
ここで近視眼的な功利主義と差別思考が手を結ぶ。悪が手招きするように、差別主義の思想は人を過ちへと誘惑するのだ。