埋めない生活。
(以下、2019.09.10にBooks&Appsさんに寄稿した記事(「退屈なスキマ時間をゲームやSNSで「埋める」生活に、虚無感を抱く人へ。」)の再録。未編集版のため若干文言等異なる箇所がある)
「ああ、俺はいま退屈な時間を埋めているな」という認識がふと湧き上がってくる瞬間がある(まだ頭が働いている証拠であるので最悪の事態ではない)。
電車での移動時間にスマホでゲームをやっているときや、最近だと盆休みに実家に帰って、墓参りだのなんだの、すべきことをあらかた終えて、さて自宅に戻る日までどうしようか、と思いながらほとんど手癖でTwitterを開いたときだ。
ほとんどの場合、特に何かがそこで起こっているわけではない。
スマホゲー(特にいわゆるソシャゲ)ではユーザーを飽きさせないよう、定期的にきらびやかなイベントと目を引く新キャラが投入されるが、逆に言うと、そうでもして気を引かれない限り特に続けるほどのものでもなかったりする。
あるいは、世の中では概ねいつも何かが起こっていて──世にあふれる理不尽や小競り合いだとか、特にどちらのファンでもないスポーツの試合結果とか、芸能人に関するなにかとか──、だがそれはあなたにとっては限りなくどうでもよいことである。どちらが勝とうが、会ったこともない誰かが画面の向こうで何を謝罪していようが、その何かはあなたの生にほとんど影響を与えない。あなたもそのことは、少なくとも無意識のうちに分かっている。
その意味で、手垢のついたゲームを起動するとき、TwitterやFacebookやはてブを開くとき、実際のところ我々は、そこに何もないことを理解している。
いや、言い方が悪かった。何かはある。意味のある何らかが。前者であればログインボーナスとイベントと新キャラ、後者であればちょっとした社会正義の不徹底、不埒な不届き者の振る舞いの一部始終、世代間格差への愚痴、諸外国と本邦との常識の比較、あるいはほどほどに戯画化された良い話や些細な気づき、ライフハックと呼ばれている何か等々ということになるのだろう。
あなたはログイン報酬を得るために定例となった手順を辿り、なんだか必要ということになっているアイテムを集めるために眉一つ動かさず周回を行う。あるいは、あなたはそのニュースに哀しみ、批評し、テキスト上で怒声を上げ、goodボタンをクリックし、Twitterに一言なにか(今度試してみよう!とか)を添えてシェアし、……そして元のレールに戻り、何事もなかったように進み始める。ライフゴーズオンである。
ライフハック的に考えると、そんな風に浪費しているスキマ時間を活用して情報収集なり勉強なりしようということになるのだろう。より意味のある活動を! 現代では歴史上最もそのためにおあつらえ向きの環境が用意されている。スマートフォンとは元々そういう用途を強く意識してデザインされた商品カテゴリーだった。
だがそんなことは今どうでもいい。 俺は課金ゲーなどくだらないから辞めろだの、インターネットに転がる玉石のひとつひとつに真面目に向き合えだのと言いたいわけではない。やりたい人間はそうすればいいし、あるいは資格試験の勉強なり浮かんでは消えるトレンドのフォローなりを好きなだけやるがいい。そんなことはいい歳こいた大人なんだから各自で考えろ。
ただその前に。
俺たちは何故特に楽しいとも思っていないゲームを手隙のたびに開いては、暇を潰してしまうのか。
あるいは、真面目に向き合う気のないニュースを我々は何故わざわざ眺めに行ってしまうのか。俺はそのことについて考えたいのだ。
喉の渇きを潮で充たすような、この噛み合わない飢えに、何故我々は陥ってしまうのか。
これは我々の失敗なのか? 何か正答すべき判断を誤ったことで、私たちは渇いているのだろうか?
だとすれば、その問いとは何だったのか?
「本来俺がやるべき価値あることとは何か?」
「我が人生を意義ある生とするために何をしたらよいのか?」
「このあり余る能力をどこに向けたらよいのか?」
これがその問いのように思われる。
時間を無駄にしてしまったな、と思うとき、私たちは本来あるべき姿、本当になすべき仕事がどこかにあったはずだという思いを抱いている。辿り損ねた道行きがぼんやりと脳裏をかすめているから、その道半ばで立ち止まったり、行き詰まりに至る脇道に逸れてしまったことを無駄だと感じる。
では、この問いへの正答とは何か?
無駄への後悔があるなら、朧げに進むべき道が見えるはずだ。だから、私が何をなすべきか、何が価値あるものなのか=私がどのような価値観を抱いているのか自己分析してその理想像を把握し、自己実現に繋がる取組みを行おう、これが正しい答えである──
……ヘイヘイ。
勘弁してくれ。
私たちの多くが時折、あるいは頻繁に、噛み合わない飢えに苛まれることは事実だ。
ではそのとき、その飢えは私たちの選択ミスの結果として現れたのだろうか? これはかなり怪しい。
選び取るべき本来あるべき姿、本当になすべき仕事──そんなものが本来、本当にあるのか?
この問いに対し、俺は限りなく否定に近い不可知論を採りたい。
我々が誕まれ生きる本当のところなど知る由もないが、まあ、特に目的もないだろう。
俺もあなたも、たまたま気まぐれにふわっとここにいるのである。特にやるべきこともない。
その無意味さを覆す、隠された真実を知っている他の誰かも存在しない。
だが、無目的の中に放られることは、とても辛い。
この国で、あるいは似たような比較的安定した秩序の下で、ある程度年齢を重ねた人のほとんどに共感してもらえるのではないかと思うのだが、冒頭に挙げたような、時間だけはあるけれど何をしていいのかわからない、何をしてもどこかにつながる感じがしない、そんな時間をあなたも過ごしたことがあるはずだ。
焦りとむず痒さがないまぜになったような、あの時間は本当に耐え難い。艱難辛苦とは別の、何をしてよいのか分からない、手応えのない辛さがある。
あの辛さを逃れるためなら、ちょっとした厄介事が起こってそれに追われたほうがまだマシだと思えるくらいだ。
だから目的を見つけたい。何か意味あることを見出して、それに夢中になりたい。
だが夢中になるほどのものが、そんな簡単に見つけられるはずもない。
すぐ見つかるわけもないものを無理に掴みだそうとするから、分かりやすい答えに絡め取られる。
「意味のある生を」「価値のある選択を」「生きがいを手に入れよ」。それらしい口調で嘯きながら、資本は「これがそれだ」とカタログを差し出す。
しかし、繰り返しになるが用意された正解などないのだ。
問題の根本は、カタログの中から何を選ぶか、とは全く別の場所にある。
それにしても、我々はなぜこんなに退屈するのだろうか。
例えば日々の生活に追われているとき、目の前のこと以外に何をやるべきかなど考えている余裕はない。食い扶持を稼ぎ、寝床を確保し維持することに全力を傾けざるを得ない。
食うや食わずの初期状態から、少しずつ余裕を積み上げてきたのが人類の歴史であった。
余裕を積み上げるとは、言い換えれば、生きるためだけに持てる能力を全て出し尽くす必要を無くしていくということである。
出し尽くす必要がなくなった、余った能力はどこへいくのか?
更なる余裕を将来生み出すために費やされるか、それ以外の喜びを増やすために使われるか、または余ったままで放置されるかである。
これは明らかに、我々が自由を拡大させてきた道筋を示している。
皮肉なことだが、自由を拡大する条件として積み上げられた余裕は、扱いきれなくなった途端に退屈という苦しみに変わるのである。
では、どうすればよいのだろうか?
哲学者である國分功一郎は、『暇と退屈の倫理学』の中で、その結論を「物事をそのものとして受け取り楽しむこと=贅沢をする訓練を行う」こととした(白状しておくと、ここまでの話の大部分は彼の議論を下敷きとしている)。
物事に付与された記号/意味の差異を消費するのではなく、物そのものを満足のいくまで味わうこと、すなわち浪費することを目指す──そのために、物を味わう訓練をするとともに、私たちを夢中にさせるようなものをオープンマインドに待ち構えること、がその答えだという。
驚きはないが、すてきな答えである。
しかし、消費と浪費をどうやって区別したらいいのか?
「私はこれを記号的に消費しているのではない、物そのものとして味わっているのだ」というとき、我々はその二つのあり方を見分けることができるのだろうか?
別のインタビューで國分はこう答えている。
(消費は)個人的な満足を足がかりにしないで、外側に基準を持ってしまっている。だから、外の基準が変わったら、どんどん買わされてしまう。買ってるんだから満足するはずなのに、満足しないし、できない。だから更に消費を続ける。
「われわれは常に、贅沢をさせろと要求しなければいけない」──國分功一郎
上に言う物事に付与された記号/意味とは、あなた以外の誰かが付与した記号/意味のことだ。
どうやって?
その誰かが売らんかなとして考えた基準によって、である。
であれば、物そのものを味わうとは、自分自身の基準に照らして物を受け取ることだろう。
それはつまりどういうことなのか?
ここで補助線として、ブリコラージュという概念を引いてみたい。
消費の対象は、上に述べたように、生産者によってあらかじめ消費を喚起するよう設計されている。それがもたらすのは言わば設計された喜びである。
設計に対置される概念として、『野生の思考』の中でレヴィ=ストロースが唱えたのがブリコラージュであった。
- あらかじめ
- 定められた目的について
- 予定、設計図、計画を組み上げ
- 必要なものを特定し調達して
- 計画を実行することで
- 設定した目的を達成する
これが設計だとするならば、ブリコラージュとは次のような行為をいう。
- まさにその局面に至ったところで
- 目の前の事態に対して
- 手持ちのあり合わせのもので
- 試行錯誤を繰り返して
- なんとかする
なんだかこう書くとその日暮らしのダメ人間のようだがそうではない。ちゃんとなんとかするのである。
ブリコラージュを行う人はブリコルール(器用人)と呼ばれる。優れたブリコルールは、あり合わせのものに当初の想定とは異なる活用法を見出す創造力や柔軟な発想力を持つと同時に、偶然に手に入れた端切れや断片を「まだ何かの役に立つ」とストックしている。この断片たちは、偶然に訪れるブリコラージュの機会ごとに使ったり新たに余ったりして更新されていく。
絶えざる偶然の機会と突発的な必要に繰り返し晒されることで、ブリコルールは即応性と創造性、そして「目の前の"これ"は何に使えそうか」という眼識を磨き上げていくのだ。
ブリコルールの目の前にある"これ"は、そこに備わる形や性質以外のほとんどを剥ぎ取られた、まさに物そのものである。そして"これ"に対する眼識とは、経験によって打ち立てられた彼/彼女自身の基準に他ならない。
ここから、結論を次のように言い換えることができるだろう。
退屈な時間を消費で埋める生活に陥らないために、私たちはどうすればよいのか?
日々少しずつ物を受け取る過程を繰り返し、その物にまつわる知識と経験を積み重ねることで、自身の眼/直観/識見を磨き上げていくこと。
良きもの・美しいものを愛する者としての<私>を育てていくこと。これが答えである。