作者の人格とプロダクトの良し悪しはなぜ別なのだろうか。

ノイエホイエをめぐる界隈の反応 – はてな匿名ダイアリー
作家の人間性と作品の良し悪しは別だし、音楽家の人格と楽曲の良し悪しも別だ(と見るべきだ)と思う。が、この場合はなあ……なんとも割り切れないものがある。この割り切れなさはどこから来るのだろうか。

「作家の人間性と作品の良し悪しは別だ」といった建て前で切れるような重さの案件ではないから、といってしまえばそれまでなのだが。

「作家の人間性と作品の良し悪しは別だ」といった建て前、とはそもそもなんなのだろうか。普通にロラン・バルトとか蓮實重彦とか読むことから始めたほうがよいのかもしれんが(ノン-フィクションにこれらが援用できるのかは知らん)、とりあえず現時点の思考整理をしておく。

小説や楽曲であれば焦点はそのコンテンツとユーザーの私的関係にあり、作り手は中心的テーマではない。
政治家と政策では? 例えば今回のと同じ不祥事を起こしたことが明らかになれば、「政治家と政策は別」という言説はあまり起こらないだろう。

ここには微妙なズレがある。作家-作品関係と政治家-政策の関係は、相似形ではない。この意味で政治家-政策の関係により近いものを挙げるなら、アスリートと戦術の関係だろう。
戦術は結果を左右する重大要素ではあるが、全てではない。よりその場にふさわしい戦術はあるが、それだけで勝てるわけではない。アスリートがその戦術をどのくらい理解しドライヴできるかにも結果は左右されるし、戦術選択が最適でなくても、アスリート自身の基礎能力によって他者より優れた結果を残すこともある。

作り手-コンテンツ関係とプレイヤー-戦術関係との差異はなんだろうか?
良し悪しという次元で語る場面において、ひとつは、その関係内で目的が達成される・ひとまず完結するものであるか、その関係自体が何らかの目的のための手段であるか、ということが挙げられる。これは、それらが評価される軸がどこにあるか、あるいはその価値が強く認識されるのはどこにおいてか、と言い換えることもできる。

では、ノン-フィクショナルな著述家・弁舌家とその主義主張の関係は?
答えを出すことは難しい。政治家-政策関係とほぼ重なるのではないかと見てしまいそうになるが、ノン-フィクショナルな著述家の作品は政策と異なり、それ自身の出来でいったん完結することができる。時の政権に即時に直接的なダメージを与えることができずとも、優れた反権力の言葉は影響力を保ち続ける。意図したり、あるいは意図しなかったりした形で。これは言葉・テクストのもつ際立った力によるところである。
書き手・語り手の意図が消える、作者が死に絶えようと変わらず語られた言葉が残ることは、端的にその切断を表している。

ただ、著述家が生きているあいだ、それらの言葉はいわば絶えず注釈を書き込まれている状態にある。直接的にその言葉に注釈が入ることもあるだろうし、テクストの続きが語られたり、あるいは間接的に影響しあうような文章・語り・振る舞いが著述家から生み出されることもあるだろう。はじめに述べたような割り切れなさは、おそらくこの線が繋がったまま断たれていないことに由来する。