ベーシックインカムとは何か?

【波頭亮】ベーシックインカムにコミュニタリアンもリバタリアンも賛同
【波頭亮】何故ベーシックインカムが実現しないのか、その課題と障害
【波頭亮】成熟時代だからこそベーシックインカムが必要

ベーシックインカム(BI)について、波頭亮氏がよいまとめをNewsPicksに投稿していた。BIについての考えるときの基礎として有用だと思ったので、以下に要約する。


ベーシックインカムのポイント

  1. 年齢、性別、年収といったさまざまな属性や境遇に関係なく、「全員一律」であること
  2. 働いていようが、働いてなかろうが、「無条件」であること
  3. 給付された金の使途を限定しない「現金給付」であること

の3点。

ベーシックインカムの理念

BIは民主主義社会における社会正義に基づいている。
民主主義社会の正義とは何か。ジョン・ロールズの「正義の原理」がそれを示してくれる。

民主主義社会の「正義の原理」(ロールズ)

  1. 個人の自由が全員平等に尊重されていること
  2. 機会の平等が全員平等に与えられていること
  3. 現実的に機会の平等が確保されるために、生得的な理由による所得や生活水準の格差がなるべく小さいこと。

そしてこの3つの条件は、(1)、(2)、(3)の順に優先される。

ベーシックインカムの制度としての合理性、有効性

次の5点である。

  1. シンプル……全員一律、無条件給付なので、制度がシンプルでわかりやすい。
  2. 運用コストが小さい……シンプルゆえに、制度運用コストが小さい。資格認定の手続きも、給付金額の算定も不要。
  3. 恣意性と裁量が入らない……全員一律・無条件であるため、恣意性や裁量の余地がない。
  4. 働くインセンティブが守られる……人々はBIに加えて働いただけ追加の賃金を得ることができるので、働くことに対するインセンティブを損なわない。現行の生活保護制度などはこれと異なり、受給者が働こうとするとかえって損をしてしまう場合がある。
  5. 個人の尊厳を傷つけない……現行の生活保護を受けようとする場合、大半の申請者は精神的負い目を感じるもので、窓口で不当な扱いを受けることも少なくない。BIにはそれがない。

ベーシックインカムは政治的に異なる立場から支持しうる

コミュニタリアン、リバタリアン、ネオリベラリストという立場の異なる三者が一様に支持する政治的構成は普通選挙制とベーシックインカムくらい。

コミュニタリアンとベーシックインカム

“平等”を最重要価値とするコミュニタリアンにとって、格差解消と平等の実現のためにBIは支持しうる。

リバタリアンとベーシックインカム

警察や国防と同じく、国民の生存権を確保することも国家の最小機能と考えるとき、可能な限り「介入や裁量が小さいほうが良い」との理由でBIを支持する。

ネオリベラリストとベーシックインカム

BIは現金給付で使途が各個人の自由意思によって決められるため、市場メカニズムによって配分される。そのため政府が再配分するよりも効率的な資源配分が可能になるという立場である。

民主主義社会の正義に合致し、制度としての有効性も高いとされるBIが、何故これまでほとんど実現していないのか

BIの実現を阻んでいる要因は大きく分けて4つある。

  1. 「働かない人が増えるのではないか」という懸念
  2. 巨額の財政負担が必要であることに対する財政的制約
  3. 仕事と既得権に対する行政の執着
  4. 「働かざる者、食うべからず」という規範に基づく人々の抵抗感

「働かない人が増えるのではないか」という懸念

BIがあるからといってまったく働かない人が大量に発生するかというと、単純にそうは考えられない。なぜなら、

  • より良い暮らしをしたいとか、より高みを目指して自己実現を図ろうとする人たちは今と変わりなく働く。
  • 低条件で過酷な仕事を押しつけることができなくなる一方、好きな仕事なら賃金は低くてもやりたい、楽しめる仕事なら給料を気にせずに働きたい、という人も出てくる。

どちらかというと、今まで生活のためやむなく低賃金で請け負われてきた苦役的労働の価値がその本来のしんどさに応じて高騰する。このとき、仕事ごとに発生する賃金の増減の総和が現在と比べてコストアップになるのかどうか、が大事な論点になる。

しかしこれも、ロボットをはじめとして、代替手段は遠からず生まれるのではないか。
また、苦役的労働よりやりがいのある仕事=知的でクリエイティブな仕事のほうが経済的付加価値が高く、かえって社会の厚生水準の向上に寄与する。

巨額の財政負担が必要であることに対する財政的制約

ベーシックインカムを仮に月額8万円支給するとする。この金額は国民年金などと同程度の、最低限の生活が維持できるものとして想定。
そうすると必要源資は年間約122兆6000億円。
基礎的年金や生活保護手当てといった社会保障給付は、BIによって代替され不要になるため、差し引いて計算すると、BI導入のための追加コストは58兆4000億円
この追加コストを国民負担率(国民所得に占める税金と社会保険料が占める割合)で表すと、現行の約40%から約60%に上昇する。

しかし、国民負担率60%という水準は先進国においては決して珍しいわけではない。
また、この追加コストは、現在の複雑な社会保障制度がシンプルなBIに一本化されることによる行政コストの縮減可能性を加味していない。

高福祉の北欧諸国はセーフティネットの充実と高付加価値産業への産業構造シフトが実現して、各国ともに経済が好調である。BIがむしろ経済を後押しし、税収を好転させることも十分考えられる。

仕事と既得権に対する行政の執着

BI導入は行政を司る側にとっては仕事が奪われ、裁量の余地がなくなることを意味する。
行政に携わっている人は国家公務員と地方公務員を合わせて現在340万人(公営法人を合わせると約540万人)もいる。
そもそも、現行の社会保障、社会福祉の制度が非常に複雑になってしまっている現実は、自己肥大化を志向する官僚組織の本能に基づくものだ。

ニーズ対応型福祉のロジック

差配・裁量の余地を拡大したい行政が主張するのが、社会保障・社会福祉は“ニーズ対応型で”、それも施設やサービスという現物支給でというロジックである。
行政が善意で、最適の判断を行い、しかもフェアで効率的な運営を行うならば、合理的で無駄のない保障と福祉が実現するかもしれないが、実態は別の結果となっている。恣意性と裁量が介在する制度では、必ず不正などが起きる。

「働かざる者、食うべからず」という規範に基づく人々の抵抗感

働かない者を働く者の稼ぎで食わせることに心情的拒否感が生じるのは当然。

一方で、世界の先進国が歴史的に見てかつてないほど豊かな水準に達しているという“歴史的”事実がある。現在、日本国民は各人平均で食うための2.5倍強も稼いでいる。
ならば1人当たり国民所得の2.5分の1を国民全員に均等に分配して「働こうが、働かなかろうが、食って良し」とするのが、人類として大きな進歩ではないか?


要約は以上。

ロールズの正義論がBIの支持として読みうるのか否かは要確認。
また、コミュニタリアン、リバタリアン、ネオリベラリストがざっくりとまとめられすぎではないかと思うが、これは立場が違えど共通に支持しうる政策である、というのが論旨なので、あまり深く立ち入る必要はないとの判断だろう。
全体としては非常によくまとまっている。

記事にいくつか反論も寄せられていて、理解を深めるためにこれらも合わせて検討しておく。

反論とそれに対する検討

行政コストの削減が計上できなければ導入可否の議論を始められない

これはその通りで、厳密に求めることは難しいとしても、行政コスト=人件費をどの程度削ることができるのか、一定以上の精度で積算が必要。

BIは社会主義と変わらないのでは?

「社会主義」で何を指したいのかによるが、従来社会主義へ宛てて挙げられた批判は大きく下記の3つで、

  • 権力の共産党への一極集中
  • 自由権の抑圧・侵害
  • 労働意欲の低下

まず上2つは明らかにBIに当てはまらない。
唯一懸念すべきは3つ目だが、なぜこれが問題になりうるかというと、もし税収が低減すればBIを含む制度そのものが維持できなくなるためだ(働かないことそのものは問題ではない)。
いかに財源を永続的に維持していくかという点は、政策としてもっとも重要な点となる。また、BIは富裕層から貧困層への財の移転をもっともわかりやすく行う制度であり、富裕層の国外流出を招く可能性はある。
一方で、いわゆるシンギュラリティ後に生産に関する諸問題が解決するのであれば、それのみが問題であったBIは以後の最適政策となるのではないか。

働かなくてよくなれば他国との競争に負ける

労働意欲の低下を問題視する立場からこの懸念も提出される。正確には、国内生産→税収ルートで国家の収入として得られたはずの財が国外流出するようになるのでは、という問題。
これはどういった想定が可能だろうか。要再検討。

家事労働の社会化が家庭へと逆行する

的外れだと思われる。実際には、苦役的労働はイエの中の女性たちから経済的中流〜貧困層へと、つまり弱者から弱者に移転されたにすぎない。その善意や働かざるを得ない窮状につけこんで、経済的弱者に保育・介護・家事といった経済的付加価値の低い労働を押し付けている現状自体、そもそも何も問題を解決していない。

BIだけで生活が維持できる金額を支給できなければ、単なる福祉の切り捨てになる

これは重要な指摘。たとえば上記の月額8万円の場合は、医療保険も廃止された積算なのだろうか?
行政の裁量の削減はBIのメリットでもあり、デメリットでもある。BIは良くも悪くも人々の愚かさを許容する剰余を持たない制度であるため、リテラシーの低い層、ギャンブルなどに親和的な層、不運の重なった人々に差し伸べる手を持たない。

それでもやっぱり「働かざるもの食うべからず」

多くの人間の内規化してしまっている決まり文句だが、なぜ「食うべからず」なのだろうか。「働かざるもの食うべからず」という文句は、新約聖書の一節に由来があると言われる。

また、あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。
(『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年 テサロニケ人への第二の手紙 第三章10節)

パウロの真筆か否かで議論が分かれる一書だが、どちらの立場でも、本書は終末論が高まる中、浮き足立っていた信徒たちを鎮めるために記されたものとする説がある。
また、レーニンは新聞『プラウダ』第17号(1929年1月20日)にて次のように述べている。

「働かざるものは食うべからず」――これが社会主義の実践的戒律である。

これは”怠惰”な者や働く能力を持たない者に向けられた言葉ではなく、資本家、地主、利子生活者といった不労所得者に向けられた批難の言葉である。

キリスト教徒のペテロあるいか何者かがテサロニケの信徒に向けた手紙(かどうかも定かではない文書)の言葉と、私たちの社会にどういった関係があるだろうか? あるいは、資本家を搾取者であると糾弾するための言葉を、なぜ今そうではない人々に向けるのだろうか?

明解な回答は無いように思う。少なくとも、「働かざるもの食うべからず」という言葉は確固とした思想に支えられた金科玉条ではなく、いまのところ特定個人の信念や”決まり文句”以上のものではない。

というか、社会はすでに働かざる者に食わせている。生活保護はその顕著な例であるし、自分の働いた分以上に食っている者まで広く見れば(「働かざる者食うべからず」の規律には十分その意が組み込まれている)、各種社会保障は多分にその面を含んでいる。

「働かざるもの食うべからず」であれば、こちらをも否定しなければ論理が一貫しない。ネオリベラリズム的自己責任論はこの意味で愚直に一貫している。社会の死を招く衝動としてではあるが。

ネオリベ自己責任論者ほど無思慮になりきれない者であれば、その折り合いをつける境界線をどこに設定しているのか向き合わねばならない。そうでなければ「働かざるものにも生を!」という思想を批判する資格がないだろう。

その線はいったいどこに構想しうるだろうか?