書評:『の次に来るもの 未来を決める12の法則』(ケヴィン・ケリー)

邦題からはインターネットのオルタナティブのようなものを期待してしまうが、本書のテーマは原題によく表れている。原題は『THE INEVITABLE :Understanding the 12 technological forces that will shape our future』、つまり、本書のテーマは我々の未来を形作るであろう12の技術的潮流であり、更にいえば、それらは避けがたいものとして現れる、ということだ。

著者ケヴィン・ケリーの挙げるその12の技術的潮流は、次の通りである。

  1. BECOMING —ビカミング
  2. COGNIFYING —コグニファイング
  3. FLOWING —フローイング
  4. SCREENING —スクリーニング
  5. ACCESSING —アクセシング
  6. SHARING —シェアリング
  7. FILTERING —フィルタリング
  8. REMIXING —リミクシング
  9. INTERACTING —インタラクティング
  10. TRACKING —トラッキング
  11. QUESTIONING —クエスチョニング
  12. BEGINNING —ビギニング

ケリーは、今後30年の未来を形作るものとしてこれらを位置づけている。
いくつかを要約すれば次のようになるだろう。

BECOMING —ビカミング

未来のテクノロジー生活は終わることのないアップグレードの連続となる。
変わり続けるゆるやかなプロセスが世界のあるべき姿であり、我々の進む未来は目の前の変化の先にある。置きつつある変化を受け入れること、そして始めるのであれば”いま”始めるのがベストである。

COGNIFYING —コグニファイング

認知化(コグニファイ)すること──つまり何の知能もないモノに安価なAIを付け足していくことで大きな変化が現れるようになる。
シンギュラリティ論を初めとしてAI、特に人間の知能を超える超AIがここ数年話題となっているが、実際に社会に先に変化をもたらすのは擬人的・集約的な単一の超人工知性ではなく、作動していることに我々が気づきもしないような、安価で信頼性が高いスマートな単純知性のほうだろう。

また、AIの認知のあり方は人間のそれとは全く異なる。高度に専門化されたそれらの認知は人間とかけ離れた知性を発揮するため、我々は自らと別種の知性を有効活用し、それらを共同活動する術を身につけていくことになるだろう。

FLOWING —フローイング

「デスクトップ/フォルダ/ファイル」という単位で体系化された第一段階、「ブラウザ/ページ」単位の第二段階を経て、現在コンピュータ化の第三段階は「流れ/ストリーミング」を主要な単位としている。
データ、アイデア、メディアを瞬時に複製できることが21世紀の経済を動かすものだったが、コピーによる無料化の先にはプロダクトの分割化がある。フローへのアクセスというあり方はプロダクトの分割化と表裏一体のもので、分割されたプロダクトはコピーされ、編集され、他からリンクされて絶えず流動化し、瞬時にどこかへと伝わってゆく。

……以上、冒頭から3章はおおまかに上記のような内容である。

本書で紹介される事例やテーマには、「どこかですでに見たもの」という既視感がある。著者もそれは了解しているところで、BECOMINGの項にあるとおり、大きな変化は突然無から現れるものではなく、目の前にある小さな変化が積み重なって訪れるものである、ということを前提としているからではあるだろう。
ただ、やはり若干の物足りなさは否めない。言ってしまえば凡庸だという感じさえする。これが2014年とか、2015年初頭に翻訳書として出ていればそこそこ衝撃の本として受け止めていただろうが……。

Webでの文章であればそう感じることは少ないし、COGNIFYINGの章がWIRED特別号に先行掲載された際にはかなり興味深く読めた。となると、やはり図書化(&翻訳)による伝達速度の低下がそのまま魅力の低下につながっているのだろう。

また、クリス・アンダーソンもそうだが、WIRED系のライターは書籍となるとどうしても文章が水膨れしてしまっていて退屈する。自らの現場を持たないがゆえに、飾る文章が多くなるためだろうか。内容的にはおそらく半分の厚みで足りるし、その方が良かったと思う。

とはいえ、本書の示す方向性は非常に示唆的である。
本書を指針のひとつとして未来を思考することは有益だし、まさしく著者も望むところだろう。

COGNIFYINGの章の「安価で信頼性が高いスマートな単純知性」は、一昔前にはユビキタスコンピューティング、そして近年IoTと呼ばれる一連の潮流において、これから一般化していくトレンドであることは間違いないだろう。クラウドが演算機能の外部委託を可能にしたことによって、安価なセンサーやスクリーンさえあればどのようなモノにも高度な"知性"を投射できるようになった。

また、身の回りのさまざまなモノやサービスの現れ方をより細密にコントロールできるようになる点から、環境管理型権力という概念も想起されるだろう。10章TRACKINGとも関連するが、環境管理型権力──環境そのものを行動科学的な視点から構築することで、人間の行動を意識させずにコントロールしようとするもの──は、環境にセンサーや反応性を付加することでより緻密化され拡散していく。

これは誰かが私たちをコントロールしようとしているといった話ではなく、たとえばios10で加わったベッドタイム機能などもその1つだということだ。スマート◯◯と名のつくモノすべてがそうなのだと言ってもよい。
会社からの帰り道にスマホのアラートに促されて牛乳を買うとき、私たちの行動はそれがなかったときと比べて変化している。それは私本人が望んだ変化だし、よい変化だろう。問題は、「私本人」という主語がいつのまにか切替られる(そしてそれに気付きもしない)可能性も広がったということ、そして「よい」というあり方そのものにも変化が訪れるだろうということだ。

自ら進んで「アラート」あるいは「通知」を設定することで自身を規律しようとする姿は、環境管理型権力によるコントロールから規律訓練への回帰にも見える。
実際には、規律権力からコントロール型権力、そして新しい姿の権力への移行の前提として技術の発展があり、管理・加工・編集可能な対象が拡大するに従って、もっとも効率的・生産的な方法が選ばれてきたということだろう。

規律訓練による規範の内面化も、環境管理型権力による見えないコントロールも、権力の発動者によって、その発動の機会と抵抗を最小化することを目的としていた。抵抗は消えたわけではなく、権力が抵抗との相対的な時間軸をズラし、現れ方を変えたことで、分散化され、その力を発揮する場を奪われていったのだ。

新しい姿の権力は、テクノロジーによりますます分散し遍在するようになる。ナッジが日常にあまねく敷き詰められたとき、私たちがその存在に気づくことはもはやできなくなるだろう。
(Facebookは熱心にこのナッジの実地研究を行っていた。前回はこのライトな人体実験に私たちも気付くことができたが、次は無理かもしれない)

また遍在するテクノロジーを通じて、権力は大きく2種類の形で現れるようになるだろう。それは規律権力と環境管理型権力の両者が先鋭化した姿となる。
規律権力は主に「聞き分けのいい人々」によって発動されるようになる。対象はもちろん自分自身である。高度に社会に適応したこの人々は、自分の生をさらにコントロールするため、テクノロジーによって自己規律を外部委託する。
一方で、「聞き分けの悪い人々」の生活には、密やかに環境管理型権力が滑り込んでゆく。これからは呼気に基準値以上のアルコールが含まれていれば車のエンジンはかからないし、スマホが適切な就寝時間を教えてくれるし、GPS付きの親切な装置が老人の行動をコントロールして寝たきりと徘徊の両方を予防するだろう。これらは実現すべき「よい」ことだし、反対すべき理由は「見当たらない」。
テクノロジーが成し遂げようとするこの「社会的な善や向上」にあなたが薄ら寒さを感じるのであれば、それが避けられないものとして現れるのであれば、あなたはそれを乗りこなす言葉を鍛え上げなければならない。